華音高校は今日も騒がしかった。何時も騒がしい学校ではあるのだが、今日はもう暴走と言っても良いくらいに誰もが熱くなっている。今日は、学校全体を巻き込んだクラス対抗バスケットボール大会の日なのだ。各学年毎にトーナメント制で勝ち抜いていくこの大会は、まさに冬の戦いである。当然ながら男子と女子は別であるが、1クラスから複数チームが出る事が出来る。この大会の優勝チームには何と学食一万円分のチケットがチーム全員に配布されるという特典があるので、貧乏学生諸氏のこの大会にかける熱意は半端なものではなかった。
そう、彼らにとっては。
「うおおおお、行くぞ北川―――っ!!」
「おお、50点引き離してやるぜっ!!」
そう、3年D組にいる名物コンビだ。片方は恋人に財布が空にまるまで奢らされつづけて赤貧に喘いでおり、もう一人は一人暮しで金が無いところに妹が転がり込んできた事でますます貧乏になっている。2人にとってこの食券一万円分はまさに死活問題だったのである。
この二人の鬼気迫る何かに圧されたのか、相手チームの多くはまともな戦いも出来ずに次々と敗れていったのである。
まあ、おかげで他のチームメイトは随分楽をしていたりするのだが。
「いやあ、走らなくていいから楽だねえ」
自分のゴール下で暇そうにしている斉藤君がいた。お前も動けよな、元サッカー部キャプテン。
「いいじゃん、元なんだし」
さいですか。
祐一と北川の鬼人のような活躍は当然ながら衆目を集め、体育館内にはなにやらたくさんの黄色い声援が響き渡っていた。
まあ、それを聞いてにへら〜と緩んでしまうのは男としては自然な成り行きだろう。男どもの嫉妬と憎悪の視線もかなり混じってはいるのだが。
かくしてまたしても勝ってしまった祐一チーム(祐一命名)は意気揚揚と自分たちの知り合いが確保していたスペースまで帰ってきた。
「ふうやれやれ、あと2勝すれば優勝だな」
「おお、学食チケットは俺たちのものだぜ!」
パチンと手と手を打ち合わせる二人。少々あれだが共通の目的に向かっている二人の息はピッタリであった。
だが、後ろから付いて来ていた斉藤は少しぐったりとしていた。
「元気だな、お前等」
「当たり前だろ、一万円だぞ一万円!」
「俺達には何物よりもありがたいもんだぞこれは!」
詰め寄ってきて力説してくれる二人に斉藤は引き攣った笑いを浮べて何度も頷いていた。
「わ、分かった分かった、分かったから近づくな」
「分かれば宜しい」
「うむ、斉藤も優勝に向けて邁進するように」
「……へいへい」
肩を竦めてもうどうにでもしてくれ状態になった斉藤君。
そして自分たちのスペースでは名雪達が待っていた。
「お帰り祐一〜」
「おお、帰ってきたぞ」
「ご飯にする、それともお風呂かな?」
「いや、まずはお前からじゃーっ」
「キャー、祐一エッチだよーっ」
ガバァッとブルマでポニーテールな名雪に襲いかかった祐一。だが、そんな二人の頭上からブリザードもかくやというようなお声が降り注いだ。
「昼間っから何してるわけ、あなた達?」
「「はっ」」
慌てて上を見上げれば香里の呆れかえった顔があった。北川と斉藤は「ケッ、やってらんねえぜ」とばかりにやさぐれている。
「あ、ええと、これはだねえ」
「はあ、2人とも恥ずかしくないわけ。白昼堂々とこんな所でいちゃついて?」
「ふっ、甘いぞ香里、俺達の愛の前には他人の目など障害とはならんのだ!」
「ゆ、祐一、嬉しいけどなんか恥ずかしいよ〜」
すっかりはにゃーんとなっている名雪の頭を抱き寄せて香里に背を向けた。
「はあ、ここは少し暑すぎるようだな斉藤」
「ああ、どうもエアコンがいかれてるらしい。あっちにでも行こうぜ」
ああ暑い暑いとわざとらしくジャージの胸元をばたばたさせて立ち去って行く2人。その後姿を香里は少し寂しげに見つめていた。
「名雪〜、もう昼まで試合は無いからここでこうして試合観戦してよ−な」
「う、うん」
なにやらピンク色のオーラを撒き散らしている2人に、香里は頭痛のしてきた頭を押さえてその隣に座った。
「あんた達ね〜」
「なんだよ、不満なら香里は北川とイチャついてれば良いだろう」
「そうだよ、恋人同士なんだし」
「あ、あのねえ、できる訳無いでしょうが!」
今にも吠え出しそうな香里の様子に、祐一と名雪はお互いをしっかりと抱きしめあっていた。
「こ、怖いよお、祐一〜」
「大丈夫だ名雪、俺がついてるぞ」
「祐一、一生守ってくれるよね」
「当たり前じゃないか、言っただろう、ずっと一緒にいてやるって」
「ゆ、祐一〜」
ガシィッと抱き合う2人、だが、いきなり周囲の温度が下がった事に気付いた二人は、恐る恐る香里の方に振り向き、そこに鬼を見てしまった。
「地獄ってのは、そんなに悪い所じゃないらしいわよ、2人とも」
殺気さえ滲ませて凄惨な笑みを浮かべる香里。もはやマジで命が危ないと悟った2人は今度こそ震えあがってしまった。香里はニッコリと微笑むとその形のよい唇から怒りそのものを吐き出した。
「一度、行ってみる、2人とも?」
「え、遠慮します、香里さん」
「落ちつこうよ香里〜、私達なりのスキンシップなんだよ〜」
「それを目の当たりにしてるあたしの精神的疲労はどうなるのかしら?」
「だ、だから香里も北川とイチャつけば万事解決なのでは?」
「そ、そうだよ」
ここで誤魔化せなかったら先に待つのは死あるのみ。何時の間にか香里の右拳に鈍く光っている白銀色のカイザーナックルがそれを如実に証明していた。
だが、いきなり香里の肩から力が抜けた。それまで濃密に発せられていた殺気が消え去り、表情から鬼気が消える。殺戮の使徒が去った後にはなにやら悩む女の子が残されていた。
隣に腰を下ろし、力なく肩を落とした。
「北川君ね、何処か冷めてるのよね。あたしがどれだけ誘っても乗ってこないし」
「いや、たんにお前のアプローチが分かり辛かっただけとか?」
「そんな事無いと思うけど」
「どういう事したの、香里は?」
「どうって、街中で腕組んで見たり、わざと胸を彼の腕に押し付けてみたり……何よ、その目は?」
祐一と名雪はまるで珍獣でも見るような目で香里を見ていた。
「いや、まさかお前の方から積極的に動いてるとは思わなかったな」
「うん、北川君の方が積極的だと思ってた」
「あたしから動かないと、あの人なにもしてくれないのよね。まったくうぶと言うか、押しが弱いというか、鈍感というか、情けないというか」
ひたすら愚痴を並べる香里に祐一はそっと辺りを見まわした。幸いにして北川はこの辺りにはいないらしい。
祐一は安心すると、香里の肩を叩いた。
「分かった、ここはその手のベテラン達を呼ぼう」
「ベテラン達って、何処の誰よ?」
「ふっ、まあ見ていろ」
祐一は持って来ていたバッグの中からアイスの袋と水羊羹の入った袋を取り出した。
「祐一、何でそんな物がバッグから出てくるの?」
「気にするな名雪。さてここに取り出したります物は、恋愛道の有段者達を召還するアイテムにございます」
「……まさかと思うけど、エセじゃないでしょうね」
「………………」
祐一の頬を伝わり落ちる一筋の汗。それが彼の内心の動揺を示していた。
「さ、さあ、それでは呼んでみようか!」
「ちょっと、答えないさいよね!」
「おいでませい、恋愛亡者と昼メロおばさんよ!」
よく分からん召還魔法で召還されるのは誰なのだろうか。
そして、2人の少女が怒りも露に襲いかかってきた。
「誰が恋愛亡者ですかぁ!!」
「誰が昼メロおばさんなんですかっ!!」
メゴシィッ!!
祐一の顔面に叩きこまれた右膝と、水月に叩きこまれた10tハンマーの攻撃に祐一は沈んでしまった。
「って、いきなり何をするか!」
あ、一瞬で復活しやがったよこいつ。
「この位でそうそう落ちてたまるか。水瀬家での一年は生と死の狭間の一年だったんだぞ!」
荒んだ生活を送ってるんだな、お前は。
だが、今はそれ所ではなかった。触媒によって召還された2匹の魔物、では無く、栞と美汐が祐一の前に立っていた。
「まったく、いきなり呼ぶなんて何考えてるんですか」
「まったくです。私だって忙しいのですよ」
「あれ、お前達まだ試合がのこってるのか?」
言われて栞は視線を落とし、美汐は僅かに口元を歪めた。
「えう〜、どうせ私のチームは一回戦落ちですよ」
「私はまだ勝ち進んでますが、次の試合は午後からですよ」
「美汐ちゃん強いからねえ」
名雪は美汐の実力を知っているらしく、素直に誉めていた。
「なんだ、天野ってそんなにバスケ上手いのか?」
「違うよ、美汐ちゃんは運動全般が上手なんだよ」
「なにぃ! 天野が運動神経が良いだとう!?」
祐一は思いっきり驚愕していた。逆に美汐の機嫌はみるみる急カーブを描いて行く。
「何が言いたいのですか、相沢さん」
「いや、おばさんくさい天野の事だからてっきし運動神経皆無なんだと思ってた」
「……祐一」
「ん、なんだ名雪?」
「なゆちゃんチョップっ!」
「おふぅ!」
名雪のチョップが無防備な脳天に叩きこまれる。のけぞった祐一は飛びそうになった意識を辛うじて繋ぎとめると、名雪に文句を言った。
「いきなり何をするかね、名雪さん?」
「今のは失礼すぎだよ、祐一」
「うう、だからって今のは痛いぞ名雪〜」
「はいはい、撫でてあげるから機嫌直そうね〜」
なでなでと良いながら祐一の頭を撫でている名雪。その笑顔はまるで聖母のような慈愛に満ちており、もし見てしまったらどんな男でも転んでしまうであろう美しさがある。
だが、端から見ている3人にはいいかげんにしてくれと言いたくなるような光景であった。
「……惚気たくて私達を呼んだのですか、相沢さん?」
「「……………」」
余りに気まずい空気に祐一は小さく咳払いをして名雪から離れた。
「いや、実は2人に協力して欲しい事があるのだ」
「何ですか?」
「相沢さんの事ですから、どうせ碌でも無い事だとは分かりますが」
「2人とも、なんだかセリフに刺があるんだが?」
「しょうがないわね、相沢君なんだから」
「うん、祐一だからしょうがないよね」
香里どころか恋人のはずの名雪までがうんうんと頷いている。祐一はなんだか泣きたくなったが、泣いても誰も同情してくれそうにも無いので仕方なく気を取りなおして事情を話し始めた。
「つまりだ、香里と北川をラブラブなバカップルにしようという計画なのだが」
「ええ、お姉ちゃんをバカップルに!?」
「つまり、相沢さんと水瀬先輩のようにするという事ですね」
「そう言われると何だかあれなんだが、まあ良い。とにかくこの2人をどうにかしてバカップルにするのだ。そこで二人の悪知恵を借りたいのだよ」
この無理難題に2人はしばし考えこんだ。何しろ対象が超鈍感で奥手な北川と、堅物な香里なのだ。この2人をいちゃつかせようというのはなかなかに難しい。
栞はこの問題の前にもっと大きな問題があることに気付き、姉を見た。
「お姉ちゃんは北川さんとラブラブしたいんですか?」
ボンッ と音を立てて真っ赤になる香里さん。どうやら聞くだけ野暮だったらしいと悟り、栞は糸目になってわざとらしく肩を竦めて見せた。
「あらあら、お姉ちゃんはいつでも準備オッケーですか」
「良いですねえ、彼氏がいる人は」
「全くですよ天野さん」
「あ、あんた達ねえ!」
怒りと羞恥で顔を真っ赤にした香里に2人はふうっ、と重苦しい溜息を吐いて見せた。
「あ〜あ、やですねえ、彼氏持ちの余裕って言うのは」
「全くですねえ。私達はそんな悩みさえもてないと言うのに」
やれやれと大袈裟なポーズを取って、さも私達のが被害者ですよと振舞う2人に香里は肩を振るわせながらも必死に何かを堪えていた。
「……ま、まあ良いわ。それで、何か考えでもあるって言うの?」
「無い事もないです」
「何よ栞、言っておくけどくだらない事だったら叩くわよ」
「え、えう〜、お姉ちゃんに叩かれたらか弱い私なんて即火葬場送りです〜」
「栞、漫才してると終わらんからはよ話せ」
いいかげん我慢できなくなったのか、祐一が先を急かした。急かされた事で栞が不満げに頬を膨らませる。
「祐一さんは分かってないです。こういう掛け合いが後の展開を盛り上げるんですよ」
「そうですね、パターンの中にこそ美学があるのです」
「ああ、おばさんの昼メロ講談は良いから、はよ考えを言えって」
「もういいです、分かりましたよ。それでは、ここに取り出したります1つの瓶ですが」
と言ってポケットから紫色の液体が入っている瓶を取り出した。どうやらプラスチック製らしいそれは、なんだか酷く危ない物に見える。
「な、何なのよそれは?」
「これこそ私特製、性格反転エキスです。ある方から通販で買ったキノコから抽出したこのエキスを飲ませれば、あとはお姉ちゃんの望むがままです!」
「……酷く危ない物に聞こえるんだけど?」
「大丈夫です、ちょっとガラス瓶には保管できないですが、人体に害は無いはずです。多分!」
「多分じゃないでしょうが!」
スパァンッ!!
何とも気持ちの良い音を立ててスリッパが栞の頭を叩く。まともに食らった栞は何となく満足そうな表情でぶっ倒れたのであった。
「はあ、はあ、はあ、全くこの娘は」
「ふっ、栞さん、薬物に頼って、まして人の性格を弄ろうとは言語道断ですね」
「天野さんには良い知恵があるとでも言うの?」
もう不信感100%な感じの視線を向ける香里。美汐は自信ありげにフッと鼻で笑うと、徐に人の形をした紙を香里に手渡した。
「良いですか美坂先輩、この形代に北川さんの髪の毛なり爪なりをいれて丸め、火で燃やして灰とし、それを毎日風に流すのです。ああ、形代にはちゃんと望みを書いておいてくださいね」
なんだかある意味栞の提案よりもヤバイ気がするのは決して気のせいではないだろう。
「さすれば北川さんは少しづつ美坂先輩の望むような行動を取るようになります。繰り返せばそれだけ大きな効果が得られますよ。ああ、個人差がありますからどれぐらいで効くと聞かれてもお答えはできませんよ」
「……・なあ天野、その手って、今までに誰かに使ったのか?」
「はい、ですが残念ながら呪詛を弾かれてしまいました。やはり同業者にはこんな姑息な手は通用しないようです」
何となく同業者と言う言葉が妙に気にかかったが、それよりも今は香里の事だ。恐る恐る香里を見ると、香里は何時の間にかスリッパをハリセンに持ち替えて肩をプルプルと震わせているではないか。
「い、いかん天野、速くここから逃げるんだ!」
「え?」
祐一の警告は遅すぎた。美汐が気付くよりも速く、香里は行動を起していたのだから。
「いいかげんに、せんかぁぁぁぁぁぁいっ!!」
スパァァァァンッ!!
何とも言えぬ爽快な音が響き渡り、美汐もまた昏倒してしまった。
そして昼食時、一同はそれぞれに持ちこんだ弁当を食していた。
「はい祐一、あーん」
「あーん」
「うふふ、おいしい?」
「ああ、美味しいぞ。流石遅刻ぎりぎりの弁当だけの事はある」
「そ、それは祐一が起してくれないからだよ〜」
「あんだけ頑張ってるのに起きないお前が悪いぞ」
「あの目覚まし使えば起きられるのに」
「頼むからあれだけはやめてくれ」
事情を知らない人には何の事かさっぱり分からない会話を交す2人。ただ1つ分かってる事は、この2人が間違いなく地球の温暖化に貢献しているという事である。同席している北川は少しげっそりした顔で栞の作ってきた弁当を口にしていた。
「しかしまあ、よく人前であれだけイチャつけるよな、あの2人は。そう思わないか美坂」
「え、ええ、そうね」
答える香里にはどこか力強さが感じられない。それを敏感(こういう時だけ)に感じ取った北川が不思議そうに問いかけた。
「どうした美坂、なんだか元気が無いみたいだけど?」
「え、そ、そんな事無いわよ」
「そうか?」
「そうよ、さあ、午後からも試合でしょ。あと2回勝てば優勝じゃない。頑張りなさいよ」
「おお、任せとけ。俺達に勝てる奴なんていないさ」
ガッツポーズを作って見せる北川を見て香里は微笑を浮べた。やはり、自分たちにはこういう関係の方が似合っているのかもしれない。
だがしかし、そんな二人の背後に立つ影が……
「甘いですよ、御二方」
「「うわあああ!!」」
突然声をかけられて驚きの声を上げる2人。振り向けばそこにはさっきまで気絶してたはずの美汐であった。
「甘いですよ北川さん、あなた達はこのまま行くと決勝で久瀬さんとぶつかります」
「なにぃ、あいつまだ残ってたのか!?」
「そう簡単には負けませんよ。ディフェンスかわすのに神速まで使ってますからね」
「高校のバスケ大会でそんなもん使うんじゃねえ!」
「それ無しでも先読みに優れるあの方です。相手の動きは完全に見切ってしまってますね」
物騒な奴である。
だがしかし、ここで負ける訳にはいかない。何しろ1万円がかかっているのだから。
などと決意を新たにしている北川であったが、不意に美汐が香里に出した提案を耳にして一瞬凍りついた。
「どうです美坂先輩、北川さんが決勝まで行けたらご褒美に好きなだけ甘えさせてあげるとかは?」
「な、何言ってるのよ天野さん!」
当然の提案にパニックに陥りかける香里。だがその提案を押すもう一人の人物がいた。
「そうですね、決勝まで行ったんならそれくらいのご褒美はありでしょう」
「栞ぃ!?」
「そうでしょう栞さん、これくらいは良いですよねえ」>
「ええ美汐さん、恋人どうしなんですからねえ」
「あ、う……」
なにか言い返そうとしたのだが、その都度向けられる二人の強烈な視線。どうやらあんたは黙ってなさいという意味らしいのだが、何を考えてるのだろうか。
「ねえ北川さん、北川さんだってお姉ちゃんとイチャイチャしたいですよねえ」
「え、あ、まあ、何て言うか……」
「なんです、もしかして美坂先輩には魅力が無いとか?」
「も、もしかして北川さん、スレンダーな方が好きだとか?」
「そ、そんな事は無いぞ。2人みたいなメリハリ無いよりは、美坂の方が遥かに……はっ!」
気付いた時にはすでに時遅し、言ってはならないことを言った北川には乙女達の怒りの制裁が振るわれていた。
「そういうわけで、決勝までいったら北川さんはお姉ちゃんにいちゃいちゃできるというご褒美が待ってます。頑張ってくださいね♪」
音符付きで決定を下した栞であったが、北川にはプルプルと振るえる手を持ち上げるので手一杯であった。
そしてどうでも良い準決勝はあっさりと吹っ飛ばされてもう決勝戦。祐一達は久瀬と向かい合っていた。
「あの日以来だな、久瀬」
「相沢君か、あいも変わらず騒々しい男だな」
「言ってろよ、今日こそその高慢な鼻っ柱をへし折ってやる」
「……ふっ、僕よりも、今は自分ことを心配した方が良いんじゃないかな」
「なんだと?」
久瀬が何を言ってるのか祐一にはよく分からなかったが、ふと耳に飛びこんできた恋人の声に反応して振りかえった。見れば名雪がこっちに元気良く手を振ってなにかを言っている。
「祐一〜、帰ったら何でも言う事聞いてあげるよ〜!」
「おお、マジか!?」
「でも負けたら紅生姜尽くしだよ〜」
「……………………」
祐一の顔に死相が浮かんだ。
「これを言ってたのか、久瀬」
「ああ、紅生姜尽くしとは、水瀬さんも恐ろしい罰を準備するね。なんなら良い医者を紹介するが?」
「いらねえよ。勝てば良いんだからな」
自信満万な祐一。だがそれも仲間を考えれば根拠無しとは言えない。美汐の情報では子のチームで怖いのは久瀬ただ一人。所詮ワンマンチームなのだから。
だが、試合開始と同時にこの目算は脆くも崩れ去る事になる。
「だあ、久瀬は、あいつは何処だ!?」
「わからねえ、というか、瞬間移動でもしてるんじゃねえかあいつ?」
気がつけばさっきまでとは全く別の場所に出現する久瀬に祐一達は完全に振りまわされていた。必死に食い下がるのだがいいように翻弄してくれる久瀬に祐一のフラストレーションがたまっていく。
「おのれ久瀬めえ、こうなれば奴がレイアップに入ったところをみんなで叩き落すぞ!」
「おお、スラムダンク方式か」
「そうだ、幾ら奴が訳分からなくても、ゴール前で守ってれば必ず来るんだからな!」
かくして作戦は決行される。見守っている名雪と香里の顔にも真剣な色が浮かんでいるが、流石に祐一達がでたらめな事を考えてるとは思っていない。
そして、予定通りに久瀬にボールを奪われた。とみるやいきなりゴール前に集まる3人。久瀬は不敵に笑うとその防御ラインに突っ込んで行った。
「僕を甘く見るなよ、3人とも!」
「やかましい!」
「そういうセリフは!」
「俺達を突破してから言えや!」
ジャンプした久瀬を叩き落そうと3人も飛んだのだが、驚いた事に久瀬はその3人とまともにぶつかりながらもボールを放り、ゴールに入れたのである。
「「あぁ〜〜〜〜〜」」
帯状の涙を流しながら悔しがる祐一と斉藤……2人?
「おい、北川君、大丈夫か!?」
背後から久瀬の焦ったような声が聞こえる。振り向いてみればそこには、床に倒れている北川の姿があった。
ゆっくりと目を開くと、視界に入って来たのは……
「そこには知らない天井があった」
「残念だけど、保健室の天井よ」
耳に飛びこんできた聞きなれた声。横を見れば香里が椅子に座って自分を見ていた。
「俺、どうしたんだ?」
「久瀬君と空中で衝突してね。北川君は変な姿勢で落ちたせいで頭を強く打ったのよ」
「……なるほどね」
体を起そうとして、いきなり襲ってきた痛みに顔を顰めた。
「まだ起きない方が良いわよ。頭を打ったんだから」
「ああ、そうみたいだ」
「なんか欲しいものとかある。買ってくるけど」
「……うーん、そうだなあ」
北川は少し考え、浮かんだ考えに顔を少し赤くした。それを見て香里が小さく小首を傾げる。
「なに、何かあるの?」
「あ、ああ、ええとだな、何でもいいのか?」
「あたしにできる事ならね」
苦笑する香里に、北川は痺れる頭に浮かんだある考えを口にした。
「じゃあ……膝枕して」
「……は?」
「だから、その……膝枕して」
香里はしばし二の句が告げずにいた。まさか、北川が自分からそんな事を言ってくるとは思わなかったのだ。
暫くの戸惑いの後、香里を襲ったのは怒りでも羞恥でもなく、笑いの衝動であった。
「プッ、ククク・・・フフフフフフフフフフ」
「な、なんだよ、笑うこと無いだろ」
「ふふふふ、いいわよ、甘えん坊の北川君」
香里はベッドに腰掛けると北川の頭を持ち上げ、自分の膝の上に乗せた。
「はい、これで満足?」
「あ、ああ」
「気分はどう、少しは楽になった?」
「……あったかいな、美坂は」
「え?」
驚いて北川の顔をまじまじと見た香里だったが、すでにその時北川は心地よさそうな寝息を立てていた。香里は何となく肩透かしをされたような気持ちだったが、何故かそれも許せるような気分でいる。自分の膝の上で気持ち良さそうに寝ている北川の顔を見ていると不思議と心が落ちついてくるのだ。
「バ−カ」
弱く額にデコピンを食らわせると、その頭を優しく全身で抱きしめてあげた。
ガラガラガラガラ
「おーい、起きたか北川――……」
「香里〜、北川君大丈夫だ……」
「お姉ちゃん、北川さんの様子は……」
「皆さん、早く中に入ってください。後がつかえてるんですよ」
美汐が文句を言っているが、3人はしばし冷凍状態から帰っては来なかった。最初に解凍された祐一がいきなり驚愕の声を上げた。その叫びに触発されて他の2人も解凍された。
「ば、馬鹿な、あの香里が膝枕をしている―――!?」
「嘘だお〜、何かの間違いだお〜!!」
「まさか、恐怖の大王は今日降って来るんですか!!」
3人が3人ともパニックを起している。だが、その3人に美汐が冷静に声をかけた。
「3人とも、美坂先輩に殴られますよ」
ピシィッ!!
3人は再び固まった。そして恐る恐る香里の様子を伺うが、驚いた事に香里の表情には何の怒りの色も浮かんでいなかった。それを見た3人は安堵よりもむしろ恐怖を感じた。何時もならここで怒りの剛拳が飛んでくるのに、今日に限っては微笑さえ浮べているのだ。
「あ、あの香里さん、随分と機嫌がよろしいようですが、なにか良い事でもありましたか?」
「うふふふふ、なんでか分からない、相沢君?」
「うう〜、私にも分からないよ〜」
「お、お姉ちゃんの事なのに、分からないです」
降参した3人に、香里は見たことも無いようなやさしい表情で、聞いた事も無いような穏やかな声で答えてくれた。
「見てよこの寝顔、子供みたいでしょ」
「あ、ああ」
「膝枕してくれって言うからしてあげたら、途端にこのありさまよ」
「……それで?」
分からない祐一はしきりに首を捻っていたが、分かったらしい名雪と栞と美汐は何度も頷いていた。
「な、なんだよ、お前等は分かったのか?」
「そうだよ〜、女の子には分かるんだよ〜」
「えう〜、どうせ私は一人身ですよ〜」
「ふふふふふ、こんな酷な事は無いでしょう」
若干2名ほど酷く落ちこんでるが、まあ良いだろう。香里はとても穏やかな表情で北川の髪を梳いていた。
「あ、祐一、試合に負けたから今日のご飯は紅生姜尽くしだよ〜」
「嘘と言ってくれ名雪さ――――んっ!!」
この後、祐一と名雪のカップルの他にももう1つ、奇妙な関係になったカップルがいた。
「ねえ潤、次の休みにさあ、どこか行こうよ」
「おいおい、先週出かけたばかりだぜ。俺の財布は姫里に握られてるのは知ってるだろ」
教室でパンフレットを広げる香里に北川は苦笑しながらも、何処か諦めを見せていた。ここ最近の香里は何故かとても積極的になっており、どこでも北川と一緒に居るようになった。それを邪険にするような北川ではないのだが、余りに急激な変化に戸惑ってもいたのである。
「来週は近場にしようぜ」
「ううーん、そうねえ、潤が行けないんじゃ行ってもしょうがないし、じゃあ近場で探そうかな」
「そうしてくれると嬉しい」
嬉しそうに別のパンフレットを取り出す香里を見て、北川は戸惑いの視線を前の席に座る祐一に向けた。
「なあ相沢、ちょっと良いか」
「なんだいきなり、恋愛相談か?」
「ああ、お前さあ、今みたいなバカップルになるまで、水瀬の積極ぶりに疲れたか?」
「…………」
祐一は無言で北川の肩を叩き、窓の外を見た。
「一歩、大人になったな、少年」
北川はがっくりと肩を落としたのであった。
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