「はえー」
ごろごろ。
「ふえー」
ごろごろ。
「はええ〜」
ごろごろごろごろごろ――
――ごんっ。
「ふえええ〜」
「……何をやっているんですか、あなたは」
「見て、分かりませんかあ?」
「そうですね……。あなたが他人の部屋で碌に周りも確認せず無造作かつ無遠慮にごろごろ転がり回り壁に頭をぶつけて自業自得ってところですか」
涙目になって見上げてくる少女の視線を適当に流しつつ、少年は運んできた2つのマグカップをテーブルの上に置いた。
カップからゆらゆらと立ち上る柔らかな湯気が芳しい香りを伴って部屋を満たして行く。
「……なんだか事実に交じって色々と辛辣な言葉が見受けられるんですけど」
「事実、そうですから」
「ふえ。そうですか、久瀬さんはわたしが頭をぶつけた光景を見てザマーミロとか、何を考えているんだこの脳不足娘はとか、他人様の家に上がり込んで意味もなく転げ回るこの奇妙奇天烈摩訶不思議な女めって思ってるんですね」
「よくもまあそれだけの低俗語がぽんぽんと飛び出すものですね。誰もそこまで言ってないでしょう?」
「でも事実、そうでしょう?」
「僕が女性相手にそんなことを思うとでも?」
「違うんですか?」
「……あながち、まったく正鵠を射ていない、とは言えませんが」
掠める程度はしているだろうか。
「ほら、やっぱり」
不貞腐れてしまったのかまったく起きようとしない彼女の隣に腰を下ろし、今しがた持ってきたカップに口を付ける。
「何時までそうしている気ですか、倉田さん?」
寝転がった状態のまま、先ほどから微動だにしない佐祐理に声をかける。恐らくこちらが謝罪の一つでもしない限りずっとこのままでいるつもりなのだろう。そんな彼女との我慢比べも中々面白いかもしれないが、今はそんな気にはなれなかった。それにこのまま放っておいたら後で何を言われるか(されるか)分かったものではない。
「久瀬さん」
「はい?」
姿勢は相変わらずのまま、彼女はやっと口を開いた。ただ顔は壁の方を向いているので、彼女が今どんな表情をしているのかまでは分からない。しかしその声は何時ものどこか抜けたようなものではなく、抑揚のないものではあるが。
「わたしは頭をぶつけたんですよ?」
「ええ知っています。見ていましたから」
「それも後頭部ですよ? まかり間違っても高等部でも、皇統譜でも、こう飛ぶ、でもないですからね」
「ええ、それも知っています。見ていましたし、まさか側頭部や額、もしくは他の部位を打ち付けておいて後頭部を両手で抱える訳がありませんし」
というか、後頭部の後はなんだろう。
「後頭部って、ぶつけたりすると危険だっていいますよね?」
「そうですね。額や頭頂部に比べれば脆いという点もあるし、何より衝撃を受ける段階で視界に入ってませんからその衝撃に対して碌に身構えることもできませんし」
「頭って、大事ですよね?」
「それは言わずもがな、でしょう。頭、というよりはつまりそれに包まれている脳ですが、中枢神経系の主要部ですからね」
「そんな大切な部分を、わたしはぶつけたんですよ?」
「ええ、だから見ていましたと」
「なのになんでそんな冷静なんですか!?」
ガバッという擬音がそのまま使える勢いで身体を起こす。そのまま顔を間近で突き合わせる形になり少々ドキリとするが、彼女の方はそんなことなどまったく意に介さず切々と言葉を紡いで行く。
「か弱い乙女がこんな頑強な鉄壁に頭をぶち当てたんですよ? 大丈夫かい? とか、怪我はない? とか、とにかく優しく手を差し伸べるのが男ってもんじゃないんですか!? それか少しは慌てて下さい。慌てふためきながら偉いこっちゃ偉いこっちゃと駆けずり回って下さい!」
頭をぶつけた場所をノックするようにコンコンと叩いてその固さをアピールしながら色々といちゃもんをつけてくる。
「家は完全な木造住宅ですから大して頑強でもないし鉄壁なんて表現、以ての外ですよ。それにぶち当てるなんて大袈裟な衝突の仕方はしていないでしょう?」
「それにしても、です。ぶつけた箇所が箇所なんですから、もっと、こう、労わりってものを」
「痛いの痛いの飛んで行けー、とでも言えば宜しいですか?」
「何が異体の異体の豚で逝けーですか。わたしはそんな異形の身体をした豚でしかも死んでしまえと?」
「どういう教育課程を済ませればそんな発想が浮かぶのやら……。一体どんな変換をすればそんな意訳に至るんですか?」
「とーにーかーくー!」
「倉田さん、さっきからキャラが不安定ですよ」
まさかこれが後遺症なのだろうか。だとしたらこれは一刻を争う緊急事態なのだが。こういう時は、というかこういう時も救急車でいいのだろうか? 頭部打撲が原因でこうなってしまったのだとしたら問題はないだろう。恐らく。
「ふえ、そうですか。久瀬さんにとって、わたしってその程度の存在なんですね」
「まったく何を言い出すのやら……」
「だってそうじゃないですか。痛がってるのに、全然心配してくれないし」
「はいはい、すいませんでした。僕も少し冷たかったですよ。これでいいですか?」
「愛が篭ってません……」
「こちら側に至らない点があったことを全面的に認めます」
「堅苦しいです……」
「どうしろっていうんですか」
「そうですねー……それじゃあ」
待ってましたと言わんばかりに今までの沈痛な面持ち一転、急に何時もの笑顔に戻ると、
「膝枕、して下さい」
「は?」
「だから膝枕をして下さい」
「えーと、倉田さん」
思わず人差し指を額に当てる。何を言い始めるんだろうか、この人は。
「膝枕って、足の膝に枕で膝枕ですよね」
「はい」
「ピザ枕の間違いじゃありませんよね?」
「そんなべとべとしてそうな枕に頭を乗せたくないです」
「飛The枕でも?」
「空でも飛ぶ気ですか?」
「もしくは秘The枕とか」
「そんな謎めいた枕があるなら見てみたいですけど」
「しからば火The枕などはどうでしょう?」
「この上火傷まで負わせる気ですか?」
「それでは肥The枕などは」
「そんな異臭を放ちそうな枕は絶対に御免です」
「じゃあ――」
「往生際が悪過ぎですよ、久瀬さん」
「――はい」
眼前でにっこりと、してやったり的な笑みを浮かべる佐祐理に久瀬は白旗を振った。
まあいい。これ以上機嫌を損ねられるのも考え物だし。膝枕程度で修正可能ならば全力でご機嫌取りに勤しもうではないか。男の膝枕の何が良いのかまったく理解不能だが。
「あははー。それじゃー失礼して――って、久瀬さんも早く準備してくださいよ」
「は?」
「膝枕ですよ、膝枕。ちゃんと通例に則った姿勢を取ってください」
「そんな常識、聞いたことも見たこともありません」
「男性が膝枕する場合はオーソドックスな正座か、キザッぽく片方の足を立ててもう片方の足を伸ばすかの二者択一で双璧なんですよ? そんなことも知らないんですか」
生まれて初めて知った。哀れんだ様子の佐祐理にどういった表情で返せばいいものか。
「ちなみにわたしは正座のほうが好みです」
「いや聞いてませんが」
「そうですか。佐祐理ってばやっぱりThe枕シリーズ責めに合うんですね。それか頭を乗せようとした瞬間に避けられて二回目のダメージを負わせられるか、油断大敵とばかりに膝蹴りをかまされるんですねふぇぇ」
「どれだけ鬼畜なんですか、あなたの中の僕は」
それにいつの間に拷問道具化されたのだ、The枕たちよ。というかシリーズって。
ため息ひとつ。何回目だろう。吐いた分だけ逃げるとすればどれだけの幸運を失ってしまったことか。
「――まったく、これでいいですか」
これ以上の幸せを逃さないためにも、久瀬は大人しく居住まいを正し、正座の姿勢になった。
「いやっほーあははーもちのろんですよー」
「誰ですかいったい」
妙なテンションのまま、佐祐理はころん、と久瀬の太ももに頭を乗せた。
長い髪がふわりと広がる。
「お加減は?」
「言うことなしです!」
「それはそれは」
文句がないのなら問題ない。
くふふーとご満悦な佐祐理に感化されたのか、久瀬は心地よい質量の頭をそっと撫でる。
「ふぇ」
「お気に召しませんか?」
「いいえ」
思いがけない久瀬の行動に驚きの声をあげ目を丸くした佐祐理だったが、すぐにもとの蕩けるような笑みに戻る。
「でも、もう少しですね、こう、優しげに、愛しく、ぶっちゃけ今から君をいただいちゃうぜべいべ、みたいな感じでお願いします」
「……やめますか」
「あー、嘘です。続けてください」
髪を梳くような久瀬の愛撫に佐祐理は気持ちよさげに目を細めると、今度は甘えるように頬を太ももに摺り寄せた。
どれくらいの時間そうしていただろう。先ほどまでの喧騒が嘘みたいな優しい空気の中。
たまにはこんな休日もいいか、と久瀬が感じつつ、午後の陽気な日差しにうとうとと眠気を誘われていたとき、
「さて、これくらいですかね」
佐祐理は、その台詞とともにゆらりと身体を起こした。
満足したのだろうと、久瀬が名残惜しげに足を解こうとする。
どうやら機嫌は直ったようだ。それに初めこそ嫌々だったものの終わってみれば役得役得。
が、思わぬ事態が発生した。当然といえば当然なのであるが、足が動かない。ようは痺れたのだが。
情けないな、と苦笑しつつ顔を上げた久瀬の前には、
「正座って、足が痺れるんですよねー」
振り向きざまになんだかダークっぽい笑みを浮かべる佐祐理嬢がいた。
え、なにこれ、罠だったの?
テンションが可笑しいとは思っていたがまさか孔明さんが降臨していようとは。
不適な笑みを浮かべる佐祐理に気圧されて、床に腰を下ろしたままなんとか後退りするも部屋という空間の限界に達した。すなわち壁という今は憎憎しい空間の仕切りに背中が触れる。
「フヒヒ、覚悟してくださいよ久瀬さん〜」
誰。
目の前で鼻息を荒げて両手をわきわきさせてるこの人はいったい誰。
「あ、あの、く、倉田さん?」
冷たい汗が頬を一筋。
レスリングのタックル寸前の姿勢のまま、徐々に距離を詰めて来た佐祐理はにっこりとお嬢様スマイルを張り付かせると、
「あははー……いただきます♪」
日曜。昼。
その日、とある一軒家の一室にイタイケナ少年の悲鳴が響いたとか、なんとか。
- 掲載日
- 2008/01/18